狩野派・琳派・土佐派あたりの日本美術史についてぼくなりにまとめます!(前編)

前回まで、ブログ友達のがっちゃんさんからいただいた質問に答える記事を書いたところ、何人かの方から「自分も質問が!」といったありがたいお言葉をかけていただきました。

もはやぼくに取って「質問があります!」は「ブログのお題を提供します!」と同義です。

そんな中、早々に質問をくださったのが、ぼくの使ってるブログテーマを提供してくださってる阿豆らいち (id:AzuLitchi) さんです。

らいちさんはイラストも漫画も激ウマで「ぼくなんかに何を聞きたいというのか!?」と思ったのですが…

ガチなやつきた!

 

 

というわけで、今日は日本美術史のお話です!

毎度のごとく予防線をはりますが、ぼくは美術館巡りが趣味の一介のサラリーマンですので細かなところが「違う!」ってのは優しくご指摘くださいネ。

「〜派」とは?

ある時代に、同じような特徴を持った作風の作品を作ってた人たちをまとめて、その時代の総称として「〜派」と呼ぶんですね。「様式」といったりします。

1人のカリスマを中心とした集団だったり、どこかの地域に集まって活動してた運動だったりと厳密なルールはなくて、西洋美術でみんな知ってるのだと「印象派」なんてのがありますよね。

「〜派」とは言いませんが「ルネサンス」も同じやつです。

こういう名称はたいていは後の時代に研究者さんたちが名付けたものが大半で、当時の人たちが「おれたちは〜派だ!」って名乗ってた例は少ないです。

今回らいちさんが質問してくださった「狩野派」「琳派」「土佐派」ってのは全部日本美術史ですね。

まずはこれをご覧ください。

 

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ザ・日本美術って感じを抱いていただけましたでしょうか?

これは源氏物語絵巻とかその頃の絵を真似して描いてみました。

源氏物語絵巻って平安時代末期のものと言われてるんですが、このころの絵の様式を「大和絵」と言います。

これは、遣隋使・遣唐使とかで大陸の文化がもりもり日本に入ってきてたころ、「唐絵」(唐の絵ですね)に対してつけた呼び名の作品なんですね。

遣唐使やってた頃までは、唐の文化が日本人にとっては「イケてる文化」で、ミラーボールに恋したりリーゼント真似したりしてたようなものだったのですが、遣唐使を廃止して初めて「おれたちの文化を作ろうぜ!」ってなった時代の絵です。

ちなみにこの頃の美少女絵の萌えポイントは「引目鉤鼻」と言って、線のように細い目と鉤爪のようなくるっとした鼻と「様式化」して、誰でも萌え絵を楽しめるようにしようとしてた感じが、今のぼくらにも通ずるとこがあるなー、と勝手に思ったりしております。

当然、天皇をはじめとする雅で日本を代表する位の高い方々はこの画風をこよなく愛し、朝廷内にお抱えの絵師集団を編成します。

それが「土佐派」なんです。

「絵所」と呼ばれた宮廷専属絵師集団の初代団長の名前が「土佐光信」さんで、代々一族がその座を受け継いでいったことから「土佐派」と呼ばれるようになります。

「土佐派」は朝廷お抱え絵師なので、伝統的な大和絵の雰囲気を大事にしながら、優雅ではんなりとした作風の絵が多い気がします。

 

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貴族の優雅な生活を描いた作品が多いなって印象です。

ぼくは着物の裾や長い髪の毛が折り重なりながらなびいていく感じが好きです。

なんとなくある「日本美術」のイメージ

ぼくらがなんとなく持ってる「日本美術」のイメージって、この「大和絵からの土佐派」か「浮世絵」ではないでしょうか?

土佐派も浮世絵師も、この後書く狩野派など以後の様式のルーツにもなってるのが「大和絵」で、大和絵をもとにいろんな様式が生まれてってるように思います。

らいちさんがこ質問してくださったように、狩野派、琳派、土佐派が区別しにくいのも、画風がみんな大和絵にルーツがあって、どれもこれもなんか似ててごっちゃになるからではないか?と思いました。

というわけで長くなってきたので、後半に続きます!