言葉を小石のように積み上げて山をつくってできたものをみんなで眺めるのが好きです

仕事とかで人と話をしていると、意見が対立することがありますよね。

そういう時、ぼくはお互いのどうしても譲れない部分をすり合わせながら「着地点」を見つけたり、あわよくばうまいこと化学変化を起こして今出てる意見よりもいいものになればいいなって思うんです。

これは別に、ぼくが立派な人間だからとかそんなではなく「そうすることが結果的に労力に対して得られるものが多いんじゃないか?」という打算的損得感情からなんです。

身もフタもない言い方をすれば、ややこしいイザコザはさっさと終わらせて、楽しいことがしたいわけです。

敵より仲間が多いほうが人生面白いと思うんです。

なので何か意見が対立したとき、ぼくはなるべく「なぜ相手がそう考えるのか?」「相手にとってその意見のメリットはなんなのか?」ってことを考えます。

その辺りを上手く汲むことができれば、あんまり時間をかけることもなく話を前に進めることができるわけで、その時に「ぼくはこうしたいのに」とか「世間一般ではこれが普通なのに」とかそんな尺度を持ち出しても相手にとっては「知ったことじゃない」からさらに揉めるだけなので、そーいうのは考えないことにしてます。

ぼくのこういう性格は「いつも冷静で上から目線のヤツ」と人によっては嫌がられるってことも承知しています。

でも、万人に好かれるなんて無理なことですし、いっかな!って開き直ってます。

先日、ちょっと意見が食い違う人と出会しまして、上記のようないつも通りの対応をしてたんですが、なかなかうまくいかず、そのうち「ん?この人はただぼくを言い負かしたいだけなのかな?」って思い至ることがありました。

「言葉」ってものを「小石」に例えるとするなら、ぼくにとって会話は、相手目掛けて小石を投げつけるっていうよりは、相手と自分の間にちょっとずつ小石を投げ合って、山を積み上げていくようなもののイメージなんです。

で、できた山を2人で眺めて吟味する感じです。

でも、それはあくまでぼくにとっての言葉との付き合い方であって、人には個人差があるわけなので、ぼくにとっての例えを押し付けてしまえば、それはその人に石を投げつけてるのと同じなのかもしれません。

石をぼくに投げつけたい人のその思いを、一緒に真ん中につみましょうよ〜、と曲げさせるのは、相手にとってはぼくが石を投げつけてきたと見えるんだろうな、と思うんです。

前回の記事で散々うしるきゅんを「変態」呼ばわりしましたが、これだってうしるきゅんの前に「変態」って小石を投げれば「ペローン」って石が上に積まれるとわかってるからで、そういうのってこれまでの会話の積み重ねがミルフィーユのように小石を投げた地面の下にあるからなんですよね。

会話って難しいですよね。

こういうのを自然体でできる人が、コミュ力の高い人だと思うんです。

でも、ぼくには到底できないので、ゲームのように戦略立てて楽しみたいなって思います。

と思ってることを見抜かれるせいなのか、たまに「腹黒いですよね」とか言われます。

一対一の会話にはならない、メディアからの情報なんかも、小さな小石を1人で積み上げていって山を作るようにしています。
でも、今年世間を賑わせたいろんなニュースの中に、どうしてもうまく石が積み上がらない話題がいくつかありました。

メディアに登場する人々は、一般庶民であるぼくなんかよりよほどスペックが高いことと思うんです。

そんな人が何を考えているか慮るのは、ぼくなんぞには難しいのかもしれないと思いつつ、それでもできれば一緒に小石の山をつくりたいな、なんて相手とやりとりしながら思ったりした次第です。

ちなみに、場をどうやって納めたかったいうと「いったん宿題にさせてください」と言って引き下がりました。