毎週聞いてるラジオ番組に『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』ってのがあります。
ちなみにこのサイトのヘッダー画像って、ぼくの知る限りずっと変更されていないので、鈴木敏夫さんもお若い!
今までもブログでも何回か話題にしてるんですが、この番組は、ジブリプロデューサーの鈴木敏夫さんがいろんな方と世間話的に喋ってるのを流してる放送回がよくあるんですが、かなり示唆に富んでて考えさせられることが多いです。
前回は、鈴木敏夫さんが学生の頃は本当は教師になろうと思ってたって話をされてたんですが、就職まであとちょっとのところで友人に「お前は自分の人生から降りるのか」と言われてやめたってお話をされてたんです。
この言葉の意味についてはあまり触れられませんでしたが、前後の雰囲気から多分「子どもの人生に寄り添う教師は自分の人生を生きられない」もしくは「モラトリアム期間の子どもたちに寄り添って生きてくということは、自分の人生もまたずっとモラトリアムのままだ。」といった趣旨だと解釈しました。
学生紛争の時代ですし、たまたま近くにいた友人の個人的な思想が、たまたま気になって就職先を変えたって話で、これは別に「全ての教師が自分の人生を生きてない」って話ではないですよね。
ただ、その時ふと「自分の人生を生きられてる人って、どれくらいいるのかな〜?」って思ったんです。
みなさん「自分の人生」を生きてます?
いてもいなくても良い、参加することに意義があるだけの会議に出席してる時って、自分の人生生きてるかな?
とか
あんまり気が進まない集まりの会に参加してる時って、自分の人生生きてるかな?
とか、なんかそういうことを考えてしまいました。
別に自分じゃなくてもよくて、居たいわけでもない場所に行って、やりたくもないことをやることって生きてれば結構ありますよね。
でも、そこで自分を殺してる頑張って耐えるってのも、1つの人生の物語のようにも思えるんです。
耐えたご褒美に、そのあとちょっと自分を甘やかして幸せな時間を送るのだって、山あり谷ありのドラマチック人生感があるようにも思えます。
ほとんどの人が自分の人生を生きてないようにも思えるし、「自分の人生を生きてない」っていう自分の人生を生きてるようにも思えて、これはしれっと出てきたフレーズなのに、奥が深いぞ、なんて思いました。
うーん、ぼくは自分の人生を生きられてるのだろうか?
自分を殺して生きていく社会で、自分らしく生きられる場所をそこここにちょっとずつ作っていくのも「生きてる」感があるかもしれない。
それこそブログなんてものは、自分の好きなことが好きなように書けるので、自分の人生を生きてる瞬間かもしれません。
顔も晒さず、偽名を使ってやってる文字情報だけの「仮想」の空間なのに、なーんて思うと、これまた不思議なもんですね。
みんなが常に本音をぶちまけながら、ありのままで生きてたら、社会は成り立たないわけですし、こうやって自分の人生を生きられる場所があるってのは、ある意味ありがたいことですね。
あとは、みんなが自分の人生を生きられる時間を確保できるよう、もうちょっと社会のスピードが緩く優しくなってくれたら嬉しいなぁ。