「ネットの声」は親だった

暴力的だったり低俗だったりセクシャルだったりした内容を取り扱ってネットで炎上したりする類のテレビ番組って、ぼくらが子どもの頃は親がそれぞれの家で炎上してBANされてましたよね、そーいえば。

親が子どもに向かって「こんなもの見るんじゃありません!」って言ったてものが、そっくりそのまま「こんな番組やってけしからん!」って声になってるだけなのかー。

と、最近気付きました。

これはなんというか、ちょっとホッとしたっていうか、人の価値観が急激に変化して厳しくなったわけではないんだなーって思わせてくれまました。

「見たくない!」って思ったものを、これまでは1人でプンスカしながらチャンネル変えてたのが、今はスマホとかSNSとか瞬時に世間に物申せる方法があるので「こんなのおれに見せるな!」とつい言い放ってしまってるんですね。

そーいえば「ネットの芸能人に対する批判の声は、今までテレビに向かってぼやいてたのがそのまま書き込まれてる」ってのを読んだことがありました。

あれと一緒だ。

書店に並んだアダルティなコンテンツに対して「こんなもの子どもの目に触れるとこに置いてけしからん!」ってネットに晒すのも同じですね。

今までは「みちゃいけません!」だったのが「こんなもの子どもの目に触れるところに置くな!」になっただけ、ということか。

「子どもの学校の担任の不満」も、SNSに書き込む前に連絡帳に書いてるのかなー?って思うことがあります。書いても改善されなかったのならごめんなさい。

でも、連絡帳に書いて無駄だったら、学年主任とか教頭とか、順番に相談してってもいし、『三月のライオン』でも、解決してくれたのは学年主任の先生でしたよね。

まぁ、そんな楽観的になれるのはぼくがクソみたいな学校に当たってないからなのかな?

変な先生に出会うこともありましたが、それ以上にいい先生に巡り会うことの方が圧倒的に多かったもんな。

ぼくは中学時代に勉強しなかったのでスラム街みたいな高校に通いましたが、あれはあれでいい思い出です。おかげでちょっとやそっとでは心が折れなくなりました。

あ、話がそれちゃいました。

親が子どもに「こんなの見ちゃいけないザマス!」って言わなくなったのって、コミュニケーションが減ってそれぞれにモニターがある生活になっちゃったからですかね。

「お茶の間」がなくなったと嘆くこともできます。

でも、厳格な家庭で育ったぼくは、音楽番組も恋愛ドラマも「くだらん!」って見させてもらえず、演歌と時代劇を悟りの境地で見てた子ども時代で、初めてバイトしてテレビと室内アンテナを自分で買った時の感動は今でも忘れられないものがあったりします。

『喧嘩屋右近』は好きでしたが。

親や大人が厳しく規制する隙間を掻い潜ったり、掻い潜れずにもがいていくうちに自分が大きくなっていって、少しずつ自由を手にすることで「大人になる喜び」を感じられるのも大事な気がして、それを大人が先回りして社会のルールにしてしまうのもなんか不自由な気もするし、かといって「なんでもあり」の世の中もなんか無法地帯っていうか文化が成熟してない感じもするし、ダヴィンチの時代は同性愛がおしゃれでイケてる行為だったってのも読んだことあるし、若者の流行を偉い人が「低俗だ!」って押さえるのはもうそれ自体が文化なのかもしれません。

でも、今のぼくの酔った頭ではこれ以上はよくわかりませんね。

寝ます。

おやすみなさい。

f:id:rito-jh:20210206090505j:plain