ぼくらの住むこの国は、勤勉さを美徳とするため、このことをあんまり声高に言ってると白い目で見られかねないのでここだけの話にしますが、ぼくは「面倒くさい」と思う自分の心の声に人はもっと真摯に耳を傾けてもいいんじゃないかと思ってます。
当然、ただ単に何でもかんでも「面倒くさいからヤダ!」って駄々こねるのはお子様です。
そんなお子様ランチを卒業したぼくらは、もう一歩踏み込んで「面倒くさいと思っちゃうのはなぜだろう?」って考えてみるのが大事だと思うんです。
そこには、「みんなやってるから」とか「これが普通だから」とか「前例を踏襲して」みたいな、そーいう理由で思考停止でやってることが意外とたくさんあるような気がします。
つまり、「面倒くさい」は費用対効果を考える際の重要なアンテナなんじゃないでしょうか。
面倒くさいことを面倒くさくないようにこなすために工夫することは、労働生産性を上げるってことだと思います。
そうやって、心に負担やストレスをかけることなく、仕事やそれ以外のことをこなしながら送る日々は、笑顔があふれる楽しい毎日のような気がします。
なのでぼくは面倒くさいことはやりたくないと言いたい。
そして「やらない」のではなく「面倒くさくないようにしてからやる」ということだと付け加えさせていただきたい!
イノベーションなんてのも、意外とそんなものなのかもしれません。
こう見えてリアルのぼくは、新しい取り組みをやるのが得意と評価されることがあるのですが、それらは「面倒なことをしたくなかったから」という動機が少なくないのです。
そして「勤勉」と実はとても近いところにあるのが「我慢」なんじゃないかとも思っています。
勤勉と同じように我慢も美徳とされてる気がします。
「つらい」って言う人に「つらいのはお前だけじゃない!」みたいになるのも、これだと思うことがあります。
10年前のこの時期も、「みんな我慢してるんだから」というマインドを「絆」というパワーワードで包み込んでいた部分があったような気がします。
そして我慢に我慢を重ねた結果プチッといった人が、一足飛びに「お上は!」「政治は!」てなってるように見えることもあります。
「我慢しない」は自助にも繋がることかもしれません。
つまりぼくがAmazonで見つけた欲しいものをうっかりポチッとしてしまうのもまた自助なのです。
ここまで読んでくださったあなたも、何か欲しいのに買うのを我慢してるものがあったら、いっそのこと自助ってみてはいかがでしょう?
今日から「ポチる」を「自助る」と言い換えてみるのです。
ただ、来月のクレジットの請求額がすごいことになっていても、責任を負いかねますのであしからずです。