死なないということについて考える遊び

読書好きな知り合いと「不死」について語りました。

ずっと死ねないのは、孤独で辛いのではないかという先方の考えに対してぼくは、

本も漫画も映画もゲームもガジェットも大好きなので、これらがずーっと楽しみ続けられるから素敵なことなんじゃないか?って思いました。

過去の名作はもちろん、これからもそれぞれのジャンルがどんどん進化していって、まだ見ぬすごい作品や表現方法、表現の機器が次々と生まれ続けて、それらをずーっと楽しめるなんてめっちゃ良いじゃないですか。

それなら、不死でも全然つまらなくないのではないか?と思うんです。

そして何より、ぼくには絵を描くといういつまでやってもどれだけやっても飽きない趣味があるわけです。

ぼくは今でも「あと死ぬまでに何枚大きな作品が描けるかな?」なんてふと考えたりするんですが、そんな心配も不死になればなくなりそうです。

さらにさらに、ぼくは食があんまり太くなくて、それでも食べること自体は好きなので、死ぬまでに胃に入れられる量が他の人より少なくて無駄撃ちしないように心がけているのですが、この辺りについても自由になりそうです。

とか考えたら最高じゃないですか、不死!

でも、ここでふと思ったんですよね。

ぼくが不死でも楽しんでいられるのは、人類が存続してること、もしくはぼくが安全な場所にいることが前提でした。

『3×3 EYES』って作品では、不死身の存在になった主人公の八雲くんが、宇宙空間を生身で漂流して、酸欠で死んでは再生して意識を取り戻しては苦しんで死んでまた再生するってエピソードがありました。

また『仮面ライダーウィザード』では、不死身の敵キャラを太陽の引力圏まで吹っ飛ばして、永遠に焼かれ続けさせるって展開もありました。

そんな特別な環境に置かれなくても、突然日本が沈没しちゃったら、ぼくは「溺れては再生」を繰り返すハメになるやもしれません。

うっかり核戦争が起こってしまったら、被爆して「体が蝕まれて死んでは再生」の繰り返しですね。

そんなことに何かの拍子になったりでもしたら、それはもう、不死になってしまったことを恨むことでしょう。

そう考えると、不死も孤独で辛いことかもしれないなーって思いました。

いつか死ぬとわかっているから、生きてる時間を精一杯生きるのがいいのかもしれません。

それこそ閃光のように。

ポップは良いこと言うなぁ。

そして何より、この歳になっても「不死になったらどうする?」なんてなんの毒にも薬にもならないファンタジーな話をダラダラとできる相手がいることと、そんな話ができるくらい平和な環境にいられることは、良いことだよなぁってつくづく思います。

今週のお題「最近あったちょっといいこと」

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