つまりぼくは美術館に行きたい

やーなんか、最近世の中がギスギスしてますね。

世界の情勢に対しても、フェイクニュースが飛び交ってるみたいで、しかも「これはフェイクニュースたのだ、世間を混乱の渦に叩き込んでやるのだふっふっふー!」みたいな意思ではない「これはすごい!皆に知らせねば!」っていう善意の拡散もあったりで、すごいことになってるなーと感じます。

今の世の中って情報がものすごく多いので、毎日いろんな人がいろんな論を展開してるのを見たり聞いたりしますよね。

で、その中から自分は何を取捨選択するのか、そして、違うものを選択した人との折り合いをどうつけるのかってすごく難しいなって思います。

別に右とか左とか、ワクチンの功罪とかそんな大きなことでなく、たとえば

洗濯に風呂の残り湯を使うのか使わないのか?

食器を食洗機にかけるのかかけないのか?

米を炊く前にどれくらい洗うのかとか?

コーヒーは1日何杯までOKなのかとか?

嫁はビアンカなのかフローラなのか?

こういったこと全てに、それぞれの論の第一人者がいて主戦場が違うじゃないですか。

誰を信じるか、何を信じるかっていうのは、もはや宗教に似てるなって思うんです。

「宗教」と例えちゃいましたが、ぼくは美術が好きなので、美術史で触れる宗教の違いからおこる様式や文化の違いが面白いだけなので、上っ面しか宗教については分かってないかもしれませんと補足させていただきます。

例えば、美術館に行くとキリスト教の絵画もあれば仏教の絵画もあって、作品内で語られてる世界の成り立ちから人と神との関わり方、1番偉い人(神?)など全然違うのに、どれも作品として等しく素晴らしいなと楽しめるわけですよ。同じ美術館の中に、違う神様が同居してるわけです。

それぞれの宗教を広く世に広めるために生まれたものなのに、本来の目的が脱色されて、純粋に作者の技巧を味わうためのものになってて、そういう文脈を解釈して美術館で楽しむって行為がぼくは大好きで、美術館の外でもそーいう風にありたいなあって思うんです。

「ぼくはこれを信じてるけど、あなたはどう?」っていうやりとりや「あの人はこういう信念のもとにこの行動をとってるのね」っていう理解が必要なんだろうなーって思うんです。

と、偉そうな講釈を垂れてみましたが、本音をいえばぼくも実はそーいうことはちょっぴり面倒で、仕事で顔を合わせる相手とは折り合いをつけつつ会話をするものの、プライベートでは、信条としてるものが違う人とはあんまり関わらないようにしつつ、かつ自分も陰で文句を言ったりもしないようにして、穏やかに過ごせたらいいなと思っています。

なんか、今日の内容は取り止めがないのですが、思ったことをダラダラと書いてみました。

ダラダラって、良いですよね。

ギスギスよりダラダラです。

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そしていつも通り、本文に全く関係ない落書きを貼って終わるスタイル。