デジタルとアナログのバランス

最近ふらっと簡単なスケッチをするようになりました。

家事育児の合間にキッチンでクロッキー帳に描いた玉ねぎとコップです。

面白いのが、こーいうスケッチをやってると、ペンタブの握り心地もいつもよりしっくり来るんですよね。

それから、デジタルで絵を描く時ってついつい写真資料に頼りがちなのですが、やっぱり実物を見ながら描くって受け取れる情報量がものすごく多いなーと改めて感じます。

モノとモノとの位置関係や、細やかな色の変化と、それらによって醸される存在感はやっぱり実物が1番です。

デジタル、バーチャル、仮想現実などの話題ももちろん大好きでよく情報追っかけてはいますが、まだまだ現実に追いつくには時間がかかりそうだなーって感じます。

もちろん、どっちがいいとかそういう話がしたいわけじゃなくて、どっちも一長一短あって、時と場合によって使い分けられるのがいいことだし、うまくクロスオーバーされたら素敵だなって思うんです。

以前ネット上でとある表現方法について「あんなのはただのコラージュだ」というコメントが付いてたのを目にしたんですね。

あ、探さなくていいですよ?

でこれ、酒の席なんかで議論したら楽しいだろうなーって思ったんですよ。

コラージュというのは、ピカソの時代に産まれた表現手法で、もうちょっと遡ると「無から有を生み出すことが素晴らしい」と考えられていた当時の芸術界へのカウンターでもあったと記憶しています。

すでにあるものの意味を解体してバラバラになったものを組み合わせて新しい意味を見出す手法で、この「すでにあるものに別の意味を与える試み」の発端は、デュシャンが男性用便器にサインして自分の作品とした「泉」あたりがルーツですよね。

「無から有を生み出すから芸術は素晴らしい」っていうのも「神の御業に等しいから」という考え方が根底にあって、コラージュはこういった固定観念へのカウンターでもあると思うんです。

てなわけでコラージュは「ただの」とは言えない表現だとぼくは思うんですが、一方で「ただの」って言いたくなる気持ちもわかって、なんでかというと、ネット普及以降に広まった「コラ画像」という言葉の持つニュアンスのせいなんじゃないかな?と個人的には思うんですよね。

「コラージュ」っていうとアート表現なのに「コラ画像」っていうとなんか卑猥な気がしてしまう日本語の機微も面白いです。

デジタルで複製が簡単になってしまったことも、コラージュの価値が下がった要因かもしれません。

また、コラージュ問題思い出すのが「ワラッテイイトモ、」という作品です。

デジタルアートがボンボン生まれてた時代にキリンホールディングスが当時主催してたアートコンペ「キリンアートアワード」で2003年に最優秀作賞を獲る予定だったのが、権利関係の問題で却下されてしまった「笑っていいとも!」を秒単位で細切れにしたものを再編集してつくった映像作品で、作者も「k.k.」という名前以外が不明で、今もアーティスト活動をされてるのかどうかもよくわからない方が作ったといういわくだらけの作品です。


www.youtube.com

「コラージュはアートか否か?」みたいな話について、ぼくが目にした場でこんなコメントつけても、酒の席で楽しく話すような雰囲気にはならないだろうなー、と思ったりして結局スルーしてしまいました。

だからといって、ネットがリアルに劣るのかと言われたらやっぱりそうは思わないです。

普段ここでやりとりさせていただいてる方々とは、普段職場で顔を合わせている人とはしないような本音トークをさせてもらっていて、それが本当に楽しいのでついうっかりこのブログもあと2ヶ月で8周年です。

何もかにも、バランスが大事だよなーなんて思います。

というわけで、デジタルとアナログの絵をバランスよく1枚ずつ付けてみました。