高校時代の美術部の思い出

今週のお題「わたし○○部でした」

予約投稿にしてるので既に「先週のお題」になってるかもしれませんが、まあそれはいつも通りです。

中学時代、ぼくはソフトテニス部でした。

「テニスの王子様」がまだこの世に存在してない時代だったので、テニスといえば「エースを狙え」で、なんかちょっと、テニスって女子のスポーツって感じだった気がします。

ただ、なんとなく中学校に入ったら運動部に入るものだと何故か当時は思っていて、でも団体競技は自分には難しそうだし、なんかカッコ良さそうな気もする…って感じでテニスを選んだのでした。

そんなわけで3年間真っ黒に日焼けして白球を追いかけてたわけですが、その間にぼくは今で言う厨二病を患ってしまって「学校の勉強って人生に必要なのか?」みたいなことを本気で考える人間になってしまい、スラム高校に進学したのはこのブログで何度か書いた通りです。

その頃には「将来は美術の大学に行きたい」と思っていたので、高校入学と同時に美術の先生に「ソフトテニス部に入りたいのですが美術の大学行けますか?」と聞いたら「運動部に入ったら体育系の大学しか行けないぞ?」と言われました。

スラム高校すぎて、大学は推薦で入学するしか手がなかったのです。

「大学全入時代」なんてのが到来する10年ほど前でした。

というわけで、高校時代は美術部でした。

まだ「体罰」なんて言葉が生徒や親に浸透する前の時代に運動部を経験してたぼくは、テニスラケットで頭殴られたりとか普通にしてたので(人間って痛いと漫画みたいに星が本当に飛ぶんだなって経験をしてました)、美術部のゆるさに衝撃を受けました。

自分がゆるゆるになってしまうのが嫌で、放課後は美術室ではなく図書室の隅でクロッキー帳を広げて絵の構想を練ったりとかしてました。

図書室には文芸部さんがいて、天空のエスカフローネや遊撃宇宙戦艦なでしこ、サクラ大戦などについて激論を交わしていて、そういった話をBGMにしたり、たまに話に入ったり、美術部員より文芸部員の方が友達多かったかもしれません。

いわゆる画塾にも通い始めました。

他の画塾のことはわからないのですが、ぼくが行ってたところで骨身に染みたのは「画力は才能ではなく気合と根性」ってことで、それは中学時代の部活動に通じるものがあってぼくの肌には合いました。

同じ画塾に通う他校の人とも仲良くなって、そういった人たちは御多分に洩れず漫画やアニメが好きで、塾帰りに本屋に寄って漫画談義とか楽しかったです。

画塾で得た技術を使って美術部で作品を制作し、ぼくは高校の間に3回全国規模のコンクールに入選入賞しました。

地方在住のぼくにとっての東京初上陸も表彰式でした。池袋でした。先生に連れられて行ったのでどこだったのかはもうわからないのですが、生まれて初めて見た長さのエスカレーターに乗って表彰式の会場に行き、式後のレセプションパーティーで唐揚げを貪った記憶があります。

…と偉そうに書きましたが、入賞こそすれど上の賞には届かず、しかも高校生限定のコンクールでのことなので、今思い返すとぼくの限界は既に見えてたのかもしれないですね。

それでも学校の正門に掲げられた「全国大会出場」の横断幕に「美術部」って出てたのは誇らしかったですし、全校集会で賞状を校長先生から手渡されるのもまんざらではなかったというか、そのおかげで東京リベンジャーズみたいな同級生たちにも一目置かれるようになって学校が楽しくなったりもしました。

そんな高校生活が送れたのも中学時代のソフトテニス部の経験があったからかもしれません。

ただ、体罰はダメだと思いますけど。

美術部自体はその後もゆるゆるだったので、絵を制作してるのはぼくくらいの状態になっていき、次第に部費のほとんどを自由にできるようになってしまいました。

顧問の先生も「部費使い切らなないといけないからこれで好きなもの買ってきて。領収書は忘れずもらってきてね。」と現金をぼくに預けたりしてたので、その金を持って休日に試してみたい画材を買いに行ってました。

今となってはコンプラ的に絶対無理ですね。