考えすぎかもしれないが、つい気になって考えちゃう話

仕事中とかにですね…

疲れてきたらぼくはデスクに忍ばせたこの粒を取り出してかじるんです。

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そうすると、頭がスッキリしてきて「もうちょっと頑張るぞ!」なんて気持ちになってきます。

 

ええ、これなんですけどね!

最近、例の桜を見る話がずっと気になってたんですが、芸能人の薬物とか結婚とかの話題が立て続けに報じられ、その間に「ない」とか「見せられない」とか「わからない」とか言っといて「あとは忘年会でもして文字通り今年のことは忘れてくださいね~」ってなるのかな〜って思っちゃいますね。

いや、めでたい話に罪はないですよね!

幸せな人を見るとこちらも幸せになりますもんね。

スキャンダラスなニュースも必要なのかもしれません。

でも、桜の話も結構大事ですよね。

誰もが学校で習った「公共の福祉」ってあるじゃないですか。

あれ、改憲草案で「公の秩序」と言い換えられるとかなんとかかんとか言われてますよね。

「公の秩序」ってつまり「空気」かな?って思うんです。

みんなが「これが良いよね~」ってふんわり思うことが「公の秩序」として守られて、それに反することが「法律違反」になるのかって思うと、ドキっとします。

ついでに「悪は袋叩きにしてもいい」って空気も世の中に醸成されてる感あるじゃないっすか。

しかもこの袋叩きが「悪を懲らしめる」ためのものではなく「何も解決してなくても自分たちがスッキリすればOK!」という溜まってる不満のガス抜き機能になってると思うんです。

そして「悪人は誰なのか?」は「空気という名の神様」次第で、ぼくらが平穏無事に生きていくには「空気神様」のご機嫌を伺いながら生きていくしか無くって、それこそ「おめでたい話題で盛り上がってる時に何花見の話とかしてんの?」みたいになりかねないんじゃないか?ってザワザワします。

ぼくみたいな現実世界の空気が読めないから絵の世界に居場所見つけた人間にとってはガクブル案件です。

今年話題になったあれやこれやのポスター問題とかも、ひょっとしたら将来「自分は頭が大きいことがコンプレックスなのにこんな絵を見せられたら環境型パワハラだ!」なんてサザエさん見て言いだす人も現れるんじゃないかと妄想してしまいます。

そうしてみんながいろんな方面に全力で配慮していき、気付けは世の中は「いらすとや」風の絵で覆い尽くされるんですよ。

そこは、誰も傷つかないユートピアであり、表現が不自由となったディストピア

なんちゃって。

個人の趣味嗜好が前面に出すぎたポスターに対して「デザインは公共性を考慮せ

ねばならん!」というのはよくわかるんです。

でも、アートとデザインが別れたのって工業革命以降で、むしろ同一だった時期の方が歴史的には長いですよね。しかも最近またアートとデザインが1つに戻ろうとしているようにも思えます。

有名な企業のロゴの「デザイン」を手がけた方の肩書きが「アートディレクター」だったり、もう垣根がないっていうか、「アート」って言葉の汎用性がすごいことになってるっていうか!

そんなタイミングで、ネットでなんでも拡散できるようになっちゃった結果が最近の不自由さなじゃないかな?どうなんだろう?

 

…て記事を半月前に書いたまんま下書きに放ったままにしてました。

読み返して「こんな話ぼくのブログで読んでも面白くないかもな〜」って思ったからです。

でも、こういう話を世間話的に気軽にできるのって健全なことだし、会話を重ねて考え深めて視野を広げるのって大事だよね!と思ったので、公開することにしました。

こういう話を、グラス片手に、人格を否定するのではなく意見交換できるような、なんだろーなー?愚痴言って罵り合うんじゃなくて、積み上げていくような、そんな感じで話したいなーって思うんです。