Twitterで学んだこと

近年Twitterを眺めていて「勉強になるなぁ」って思うことがありまして、それは何かっていうと物事は立ち止まって考えてみないと本質がみえないなってことです。

ちょっと「?」ってなる発言に対して「なんてけしからん!」と総攻撃が始まる事例ってあるじゃないですか。

そんなときに、発端となった発言をされた方のプロフィールから、ブログなり公式サイトなり、著名人なら著書などまで見にいくと「ああそういうことか」と納得したりすることがあります。

長い長ーいその方の人生の歩みの中で積み上げられてきた思いや理論、ポリシーがあって、その土台の上のたった140文字なんだな、と思ったりするわけで、そういったことについて改めて考えさせてもらう機会が最近多いなぁ、なんて思うわけです。

例えるなら、アンパンマンがバイキンマンにパンチしてる瞬間だけを切り出して「このアンパンの顔した男けしからん!」と怒ってるようなものかもしれませんね。 

f:id:rito-jh:20200820053757p:plain

もしくはラムちゃんがダーリンを感電させてるシーンだけみて「この虎柄ビキニの女、気が狂ってやがる…!」っていうようなものかもしれません。

これではツンデレという魅惑の世界への扉を自ら閉ざしてしまうことになり、人生損します。

ちょっと過激だな〜と思う発言の裏には、その発言に至るまでのどんな思想があるのか、もしくは過激な発言になるよう第三者によって意図的に切り取られてるかもしれない、そういうことが気になるようになったのは、Twitterがたまに殺伐としてるのを目にするようになったからで、そーいうのはぼくにとってはある種怪我の功名というか、気付きだったなーと思うんです。

なのでぼくも、アイキャッチ画像を金髪美少女にしていたり、そうかと思えば変な漫画をブログで公開しているからといって、ぼくが変態とは限らないわけです。

一方で、誰かの何気ないつもりの一言が大論争になったりするのは、皆で考える機会にもなってそれはそれでいいかも?って思います。

ポテサラ問題なんて、言った本人はネット上でこんな話題になるなんて夢にも思わかったでしょう。

この一件について多くの人が様々な視点から意見を述べられていて、それは女性活躍やらジェンダーの問題について考える発端になってます。

ただ、ひょっとしたら男性の母親は料理がとても得意で子どもの頃からポテサラをよく作って食べさせてくれて、そのポテサラが大好物で、そんな母親が亡くなった直後で気が動転してたのかもしれません。

勝手に妄想しましたが擁護したいわけではありません。

限られた情報で「こいつはこういうやつに違いない」って決めつけてしまうのは危ういことだなーって思うんです。

ヤンキーは怖い人と決めつけすぎると、雨の中で捨て猫に傘を貸してる姿に気づけないかもしれません。

夜の街で感染者が多いのも、率先して検査に行ったホストの皆さんが多かったからだという話もあります。

ぼくもべつに、ネットを使って社会的、政治的に何か発信したいっていう思いはあんまりなくて、視野を広げたいって思いから気になったことをちょっと調べて、その結果わかったことやわからないことについて備忘録的にブログに書くことがあります。

ブログっていう開かれた場にかく以上「こんなこと思ったんですよ〜」と誰かと共有したい欲求はあるわけですが、それが誰かを攻撃するような表現になったり誤解を生む表現になったりしないようにしないといけないなーなんて改めて思ったり、もし誤解を生んだら「この表現では不味かったんだな」と語彙力の鍛錬にしたいなーと思ってます。