土日は上の子2人が一日中スポ少で奥さんも付き添いでいなかったりなので、どちらかの午前中、ぼくは下の子にiPadでYouTube見せっぱなしにして家中雑巾掛けするのが日課になりました(毎週のことなので日課ではなく週課?ニホンゴムズカシイデース!)
1週間の汚れってけっこうすごくて、終わるころにはバケツの水なんて真っ黒で達成感半端ないです。
とかやってて思ったんですが、家が綺麗になるのって究極は「自己満足」ですね。
汚れが気になるのもぼくなら、バケツの水が真っ黒になって達成感を感じるのもぼくなのです。
ぼくは今必要のないものが視界に入るのが嫌なのですが、奥さんはまたすぐ使うものをわざわざしまうのが嫌みたいで、なんでも手を伸ばせば掴めるところに並べておく人です。
ぼくのやり方は、一見スッキリしますが、どこに何をしまったか全て把握してないといけないという負担と「取り出す・しまう」という手間が発生します。
そーやって考えてみると、片付けるのも片付けないのも個人の自由な気がしてきます。
雑巾掛けをしながらぼくは、子どもに「片付けしなさい」というのも親のわがままなだけかもしれないなと最近思うようになってきました。
別に部屋が散らかっていても、本人は不快に感じてないかもしれない。というか子どもは感じてないですよね。
部屋が綺麗だと気持ちいいなと思ってもらいたいのも究極言うと親のエゴかもしれません。
「そんなことでは大人になってから困る」とも思うけど、ひょっとしたら散らかってても不快じゃない人と添い遂げるかもしれません。
映画や小説でも、散らかった部屋に住む天才や、好きな人とデートするためにクローゼットをひっくり返す女の子とかはたいてい愛されキャラですしね。
それに、ひょっとしたら、綺麗に片付いた部屋が好きな人を好きになって、その人を自宅に招きたくなったときに勝手に掃除や片付けを学ぶかもしれません。
こうやって改めて考えてみると「宿題しなさい」も「学校に遅れないよう急ぎなさい」も結局は親の自己満足なのかもしれません。
いい成績取りたいと思ったら勉強するし、遅刻して先生に叱られるのが嫌になったら時計を見るようになるかもしれません。
そんなことを考えながら、今日も便器をピカピカに磨きつつ、日曜日がすぎていくのでした。
でもやっぱ、個人的には美しいものが好きだな。ぼくは。