コロナ禍の中の子ども達の運動会

小学校の運動会の見学に行きました。

今年は御多分に洩れずコロナの関係で、規模を縮小したものとなっていて、学年別に時間を分けて、踊りとリレーのみを見て帰るというものでした。

ぼくはリレーを見ながらふと「この子達は人生であと何回トラックを回るんだろう?」と考えました。

学校のグラウンドに書かれたトラックというのは不思議ですね。

皆あの楕円形に敷かれた線に沿って走るんです。ぐるぐる。

そのことに疑問を抱く子はいなさそうです。

そしてチームで順番に走りながら先頭を競い、親たちはその姿に熱狂したりするんですね。

これは改めて考えてみるとなかなかに不思議な光景ではないだろうか。

そしてそんな競技を、感染拡大に配慮しながらも実施してもらえたことを喜んだり、一部の運動が苦手な子は残念に思ったりしてることなのでしょう。

足の速さという、動物としての根源的な機能の高さに人はやっぱ惹かれるのかな?

ジブリ作品もよく走りますしね。

そんなどうでもいいことを考えてしまうのはぼくがオリンピックもサッカーもラグビーも1分も見ない文化系人間で、「がんばれー」もどちらかというと競技している子どもたちよりカメラを構える自分に送っているからなんだろうなって思います。

カメラといえば、ぼくは運動会の時、自分の子を肉眼よりカメラのレンズやモニター越しに見てる時間の方が多いです。

これもなかなか不思議な現象です。

わざわざ「会場に赴く」という身体をともなったな行為を経ながらも、生身の子どもではなくデジタルデータとなった我が子を見てるわけです。

ぼくは現場にいたはずなのに、見たものは次帰省した時にジジババが見るものと同じなわけです。

もちろん、その日の気候とかグラウンドの匂いとか、そういった情報量の差からくる再現性は違うわけですが、思わず現代社会の矛盾というかねじれというか、不思議な現象に思いを馳せてしまい「Googleが提供する高精細な世界中のアート作品のデータと実際に美術館に足を運んで見る作品との違い」について考えてしまいます。

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あと、今年は「コロナの関係で」と何回耳にしただろう。

そしてぼくも何回口にしたでしょう。

確かに今年はコロナのせいでいろんな迷惑や被害を被ったけど、そんなアレやコレやナニを「コロナの関係で」と一括りにして共有してしまっていいのだろうか?いいんだろうな、きっと。そんな毎回詳しく説明されても煩わしいし、ただ、市井のぼくらの日常会話レベルならその程度でいいと思うんだけど、政治に携わるみなさんはキチンと説明責任を果たして頂きたいなぁ、なんて思うのでした。

まぁ、とにかくそんな感じの運動会でした。