エモいとセクシーは多分似てる

もう2年ほど前になりますが、とある方が「環境問題にセクシーに取り組むべき」と発言してニュースになっていました。

一時的に一部で話題になってただけなので忘れてたんですが、昨年「エモい」という言葉を見聞きしまくって、「なんかエモいとセクシーは似てるな」って思ったんです。

使い方は人によってちょっと幅はあるけど、なんとなく共通認識できる、みたいなとこですね。

おそらく、セクシーな環境対策って、ちょっとやってみようかな、って思うようなおしゃれな魅力があって、決してチープではなく、周りの人に「ステキ〜!」「シビれる〜!」「ダンディ〜!」って言われるような取り組みだと思うんですね。

それこそ、レジ袋をやめて、ファッションの一部としてトータルコーディネイトされたエコバッグを持ってるみたいなのがセクシーなのでしょう。

ところで、ぼくの好きなアートの本なんかでは「コンテクスト」とか「物語」って言葉が出てきます。

一見なに表現してるかわからない作品の裏にある、文脈とか、もっと平たく言えば作者の制作意図、みたいな感じですね。

制作意図っていっちゃうと、なんか設計図みたいな図面みたいな、そういうロジカルな印象になるのに比べると、コンテクストとか物語ってのは、文学的芸術的な匂いがして「それっぽい感じ」がする気がします。

提示されてる限られた情報から、想像力を膨らませて物語を紡いで、自分が持ってる言葉で感じたことを言い表してみる。

これって結構面白い遊びです。

若い子たちが言ってる「エモい」って言葉が何についてどう思ったかってことを想像するのも、美術館に飾られてる抽象絵画を勝手に解釈するのも、ぼくにとっては同じ楽しみです。

そしておそらく「セクシー」に込められた想いも同じだったんだろうなって思います。

セクシーについて、当時はあんまり深く考えてなかっな、なんてことを「エモい」という言葉を聞きながらふと思ったのでした。

まぁ、セクシーがパブリックな場面で説明責任に耐えうるのか、これだけセクハラモラハラコンプライアンスと言われてる世の中でセクシーが適語なのか、それはぼくにはわかりませんが、セクシーを許容できない社会には、芸術もまた足りていないようにも思います。

芸術を愉しむ余裕がない社会は、今まで芸術を生み出してきた人類の歴史を否定してるし、芸術を生み出すほど高度に発達した人類の心というか脳の進化を否定していることに通ずるようにも思えます。

だからぼくは今日もムリくりにでも絵を描く時間を生み出します。

自分が人間であることの証明として。

セクシーに。

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