言葉という自由で不自由なもの

先日、ラジオを聴いてたらハッとするフレーズが飛び出しまして、慌ててメモをとりました。

これです。

今の人は感想を持たない

誰かの感想に乗っかる

うっはーってなりました。

「ネットで散見する議論ってそんな感じの多いな〜」って思ったのです。

でも、その一方で「じゃあ自分はどうだろう?」とも思いました。

これだけ世の中に情報が溢れてて、その情報を浴びるように摂取して、自分の意見だと思ってるものも、実は切り貼りしたコラージュなだけなのかもしれないな、なんてちょっとドキリとしたんです。

ん?

これは、そのまま「コラージュは芸術たりえるのか」というアートの議論に直結しますね?

やっぱピカソたちの時代の芸術家は偉大だ。

やはりぼくら現代人も、エコール・ド・パリの芸術家たちのように、夜な夜なカフェに集まって議論する必要があるのかもしれませんね。

議論と批判って、違いますよね。

でも、なかなかネットの文字情報だけでは深い議論はできなくて、というか削ぎ落とされた文字情報は批判になってしまうところが問題なんだと思うんです。

そー思うと、人類が生み出した言語というツールは、表情や抑揚など、他の情報を統合しなければ相手に真意を伝えることができないツールだったのだということに、改めて気付かされます。

直接会えなくなって、zoomとか使って会議するようになったらいよいよそう思います。

そーいえば、言語ってもともと住んでる国が違うだけで全く意思の疎通ができなくなるくらい、ある種脆弱なツールだったわけです。

まぁ、その脆弱性の中に遊びを見出して、アイラブユーの想いを「月が綺麗ですね」に乗せたりする文化を生み出したりもするので、人間ってたくましいなと思います。

zoomで遅延しているフリして遊ぶのも、同じかもしれませんね。

こうやってあれこれ考えてるぼくの思考は、はたして自分の意見なんでしょうか?

それとも、どこかで見聞きしたフレーズを繋ぎ合わせているだけなんでしょうか?

ぼくは、見聞きしたフレーズを自分の意見にするには、自分の中でどれだけ咀嚼したかが大事なんじゃないかなー?って思うんです。

咀嚼というのもいい感じに聞こえる例えなんですが、すぐできることなら実際にやってみるとか、考え方ならその考えに則って日常を送ってみるとか、そーいう感じです。

そーいえば、ラジオで聞いてハッとなってメモったフレーズ集にこんなのもありました。

正しいことを言うよりも、正しい行いを

これも今の時「まさに!」ですよね。

たしかにネット文化は楽しいのですが、口ばっかり、もとい文字ばっかりにならないよう、書いたことは実践できるようにしたいなと思うんです。

そしてやはり、言葉では表現しきれない機微を表現するために、絵は人類に必要なんだな、なんて思ったりして今日は締めくくります。

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