そろそろ5年くらいApple Watchを腕に巻いている

そーいうつもりはなかったんですが、なんかマウント取りそうなタイトルになってしまいました。

変なコメントついちゃったのでやだなと思って記事下げてるんですが、このブログで「Apple Watch良いっすよ!」って内容の記事を買った頃に書いたんですが、コメントで「あんなものはゴミだしつけてるやつの気がしれん」みたいなことを熱弁されてしまったことがあるんですね。

それまでぼくは、あんまり腕時計をする習慣がなくて、でも、あるじゃないっすか、いい歳になったらジャケットの袖からチラリと見える腕時計からその人のステータスが垣間見える、みたいなの。

そーいうのもそろそろ気にしないといけないお年頃だな〜なんて思ってたので、自分の好きなAppleから時計が出るなんて渡に船で、しっかりしたブランドだし、ガジェット好きの心を満たしてくれるし、話題性もあるしでぼくにとってはとても良いものだったんですよ。

そんなゴミ時計ですが、ずっと進化を続けていて、どんどん高性能になっていってますよね。

あの時のあの方は、今でもゴミだと思われてるのだろうか?なんてことがふと気になりました。

ネットって場所は、一時の気の迷いで世に吐いたものが、ずっと漂い続ける場所だな〜なんて改めて思います。

京都の六波羅蜜寺に「空也上人像」って像がありますよね。

南無阿弥陀仏と唱えたら阿弥陀様が口から飛び出ているっていう、言霊を表現した像ですが、あれはまさに今の時代を予言した像だな〜なんて思います。

こんなすごい仏像が閑静な住宅街の中にしれっと何食わぬ顔であるから京都はすごいなって思います。

アメリカの議会図書館なんかは、後の世の研究者のためにTwitterの書き込みを全てアーカイブしてるというので、これなんてまさに神の綴った人類の記録みたいなプロジェクトですよね。

こういったことを怖い怖いというだけではなくて、だからこそ個人単位でも責任を持って言葉を発信する自覚というか、リテラシを持つことが必要なんだろうなって思うんです。

ネットでの書き込みはトイレの壁の落書きではなくて、自宅の前に貼ることができるかどうか、くらいの判断基準で、なんて言葉を聞いたことがありますが、それくらいの意気込みで書くべきかもしれません。

もちろん、「間違ったことを書いてはいけない」なんてルールだと怖くて何もできませんから、間違いだと気づいたら「間違えました」と気軽にいえて訂正できて、受け取っと側も「全然OK!」みたいな、おおらかな土壌がセットで必要なのは言うまでもないっすね。

 

…なーんてこと言いつつ、このブログを誰かにプリントアウトされて家のまえに貼られたら軽く死ねるぼくです。

f:id:rito-jh:20210414213935p:plain