今日はぼくの中で結論が出てないことをモヤモヤと書こうと思います。
いや、モヤモヤっていうほど悩んでもないです。
ただ面白くて興味があって、ここのところあれこれ考えてるって話です。
先日とあるラジオを聞いてたら、東京都で無電柱化のキャンペーンとして俳句を募集するイベントについて言及されてたんですね。
で、これはぼくの解釈なのですが、お話の意図は、電柱がない美しい景観を謳った俳句の募集について「電柱がないことが美しい」という、美しさの概念の固定化に対する危うさについて論じられてるように受け取りました。
「なるほどなぁ」って思いました。
確かに、電柱がない景色を美しいと思う人もいれば、電柱がある景色を美しいと思う人だっていてもいいわけですよね。
エヴァの背景なんて、電柱に萌える人にとってはご馳走だと思いますし、横尾忠則さんのY字路シリーズとかも、電柱が画面から消えたら印象がガラリと変わるかもしれません。
何を美しいと感じるかなんて、人それぞれの主観でいいわけで「推しメン」なんて文化はそんな思想の象徴ですよね。
無電柱化について、きっぱりインフラの問題とか、災害リスクの軽減のためですとか言ってくれたら「はいわかりました」ってなりますが、その中に同列で「美しい景観のため」って理由が掲げられて推進されるのは、なんだかちょっと疑問に思えてきました。
と、同時にそこからもうちょっと考えて、ふと思いました。
歴史を遡ってみると、昔イタリアでルネサンスなんてものが興って、あれは確か、それまで様式化されていた神々の姿を、人間をモチーフにして写実的に描いた方が美しいとブームになったものでした。
これも言ってしまえば「これからはこれが美です」という、概念の固定化かもしれませんよね。
日本でも長いこと「狩野派」と言われる絵師集団が幕府お抱えで美しい絵を描いてたわけで、時代ごとの標準的な美しさってのは、ある程度権力者や為政者が主導してるのが世の常なのかもしれません。
一方で、ルネサンスから続いた古典的な「美」に反旗を翻して、ピクニックでご飯食べてるシーンに素っ裸の女性を描き込んだマネさんみたいな印象派や、権力者に傾倒することなく好きに日本各地を放浪しながら好きに絵を描いた与謝蕪村さんみたいな文人画みたいなのも登場したりして文化がより熟成していく歴史もあるわけですよね。
そー考えると、今回の件も「けしからん!」ってただいうものでもなくて、政府が無電柱の美を募集するのであれば、電柱を美しいという人たちが電柱アートをクラウドファンディングで募集したりすると、結果として今の時代の文化芸術の層が分厚くなるのかもしれません。
こういう話を、アートや表現が好きな人たちで集まってお酒でも飲みながらワイワイやれたらな〜と思いつつ、こんなご時世なのでそれもなかなかできないので、前回の記事に引き続きブログに認めたり、自分なりに楽しくお絵描きしてる次第です、はい。
今日はこれからこのイラストに雨を降らそうと思います。