左利きとダイバーシティ

何を隠そうぼくは左利きです。

ところが先日、小3の娘に「パパ左利きだったの!?」と言われました。

彼女はこれまでの人生でぼくが左利きだと気づかなかったそうです。

え?親子の交流が足りないからだって?

いえ、これには訳があるのです。

ぼくがまだ、あどけない幼児だったころ、左利きで生きていく息子のことを憂いた親に、鉛筆と箸だけは右手で持つよう厳しく躾けられたんです。

「鉛筆と箸は右で持たないと将来苦労する!」と言われながら、うっかり左手を使っていたらパシンと左手を叩かれていたことは、ぼくの幼い頃の鮮明な記憶の1つです。

おかげでぼくは、手先の器用さを求められる作業のみ右手を使う人間になりました。

例えば、りんごの皮を剥くときは右手でナイフを持つのですが、皮を剥いたリンゴを切り分ける時は左手にナイフを持ち替えます。

DIYするときは、カッターナイフやハサミは右手ですが、ノコギリは左手です。

絵を描くときは、絵筆は右手持ち、刷毛は左手持ちです。

苦労しなくなったかどうかはわかりませんが、「変なの」って奥さんにいまだに言われる人生を送っています。

5年くらい前でしたか、左利きは、日常の些細な不便さからストレスを積み上げていく結果、平均寿命が右利きの人より短いという論文が発表されましたよね。

このことについての真偽はさておき、日々気にするかしないか程度のストレスに直面することは事実です。

そういえば、小学校の時、体育の授業で野球をしたのですが、体育倉庫に左利き用のグローブがひとつしかなく、しかしクラスに左利きが2人いたのでじゃんけんで負けたぼくは素手で競技に加わりました。

あの時、もうひとつ左利き用グローブがあって、心から野球を楽しめたぼくがその後も野球にハマっていたら、今頃ぼくは野球選手になっていたかもしれません。

まぁ、仕方のないことだとは思います。

大人になった今や、ぼくだって自分の仕事に対して費用対効果を気にしながら働いています。

いつ使われるかわからない左利き用グローブを大量に購入しておくことは、全体の費用対効果を考えるとあんまり良くないことです。

ちょっとまえに、車椅子の方の地下鉄乗り降り問題がめっちゃ盛り上がりましたよね。

取り沙汰された駅は、1日の利用者数からバリアフリー化が「後回し」になっている駅だったと報じられていました。

バリアフリー化「しない」わけではないんですよね。

優先度が低かった。

ことの重大さはいったん置いといて(ぼくの将来の可能性が一つ減ったという重大さはあるにせよ)ぼくが素手で野球やったのと、この件は構造は同じだな〜って思いました。

費用対効果と公共の福祉って両立むずかしいんだ、と改めて気付かされました。

子どもの学校の書道の授業では、左利きの子も筆を右手で持つよう指導されるそうです。

これも、賛否両論ありそうですね。

ぼくは、書道という文化のお作法を習う時間だと考えたらアリな気がします。他の時間では右手を強要されてないですしね。

皆さんどう思います?

ダイバーシティって、多様性を認めて受け入れる社会ってことですよね。

SDGsは、誰1人取り残さない社会を実現することが目標ですよね。

前述の論文が「間違いない」と明言されるなら、ぼくら左利きは、何より大切な命が削られているわけですから、もうちょっとだけ認めてもらっても良いなと思うし、そう主張することをぼくら自身も忘れていたなーなんて、そんなことを思いました。

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