年に1枚50号サイズの絵を描きます。
人生のいろんなことの隙間に描いてるので、ゆっくりゆっくり制作を進めていて、始めの頃はなかなか画面が埋まっていかず、しっかり下準備をしてから描いてくのですが、それでも「このまま進めていいんだろうか?」「本当に画面が仕上がっていくのだろうか?」「まちがった方向にいってないか?」って不安になりながら筆を進めていきます。
それがあるとき、イメージしていたような感じの絵の面影がふっと画面に浮かんでくるんですね。
その瞬間がたまらなく好きです。
でも、そこからはイメージしていた以上の作品になるように格闘する時間の始まりで、まぁ格闘といっても絵の具と喧嘩するわけではなくてむしろ仲良くしたいので、そーいった意味では「会話」って方がいいかもしれません。
「ここにこの色置きたいんだけど、お隣さん良いですか?」とか「ここ一帯は線が多いけど窮屈じゃないですか?」みたいな。
「会話」なんていう対等な立場というより、隷属が近いかもしれません。
もしくは、祈り?
それでも描いてることは楽しくて、身も心も時間も金も捧げてしまっているので仕方がないです。
最近は子どものスポ少がずっと休みなので、なんだか心に余裕もあって、ぼくは絵を描くのが以前より楽しくて楽しくて仕方がありません。
そーいえば、こーいう気持ちで絵を描いてたんですよ、学生の頃とか。
忘れてたなぁ。
止めどなく「楽しい」が湧き上がってくるので、溢れてしまわないよう思わずレシートの裏とか、そんな場所にも身の回りのものをスケッチしたりしています。
そんなぼくですが、自分の師匠に「あなたは解釈がたりない」って言われます。
解釈が足りないのは観察が足りてないからなんだろうなって、いつも思います。
もっと世の中の美しさをよく観察できたら良いんですが、ぼくの目はそこまで肥えてないのかもしれません。
もっと美しいものを視界に捉えられるよう、もっと花鳥風月を真剣に見なきゃなと思ったりもするんですが、そんな鋭い視線で世界を見ようとしてる時点ですでに美しいものは見落としてしまうんじゃないか?
なんて思わないでもなくて、そんなこと考えてるとなんか堂々巡りで、ピカソが晩年、やっと子どものような絵が描けるようになったって言ったのなんか、ほんと名言だなって改めて思ったりします。
見た目はすっかりおっさんになっちゃいましたが、子どものように遊び心を忘れずにいたいもんですね。