【読書感想】『クララとお日さま』SFの凄い小説を読んでしまった

今週のお題「読書の秋」

今日はぼく的にこの秋1番の小説の感想を書こうと思います。

カズオ・イシグロさん著の小説『クララとお日さま』です。

以下、あらすじ紹介程度のネタバレがありますのでお気をつけください。

舞台はちょっと未来か、並行世界のアメリカっぽい場所です。

主人公の「クララ」は人間の子どもの友だちになるために製造された「AF」(人工親友)なんです。

物語は終始クララの一人称で語られます。

おそらくなんですが、クララの電源が入れられ、店頭に並んで数日ってあたりから物語は始まります。

子どもの頃の主観ってこうだったかもしれないな、と思うんですが、クララは自分の知ってる知識と周辺から得た情報を摺り合わせて自分の世界を構築していきます。

例えば、クララは自分が太陽光発電なので、人間もそうだと信じています。

おそらく誰かが「違うよ」と教えてくれれば「そうですか」ってなるんですが、当たり前すぎてだれも教えてくれないんですよね。

ここに、たとえクララが人間と同じ姿をしていても、人間と会話をすることができても、この小説のストーリーテラーであろうとも、AFという家電・ガジェットとして扱われているっていう、人間とは違うモノだと思われてるものすごくドライな事実が横たわってるんです。

クララは「ジョジー」という女の子に買われます。

ジョジーは、どうやら大病を患っているようです。

そして、両親は離婚して母親と暮らしているようです。

過去に姉を何らかの事故で亡くしているようです。

ジョジーには「リック」という親友がいて、2人は2人だけの幼い将来の約束をしているようです。

この世界では、子どもたちは「向上処置」という、ガンダムで言うところのニュータイプに人工的になるための強化人間的な施術を施されるようなのですが、リックは家が貧しいために、この処置を受けておらず、そのせいで嘲笑の対象になっているようです。

「ようです」と描いたのは、物語がすべてクララの主観で書かれる上に、だれもクララに説明してくれないからなんですね。

それでもクララは、もともと自分に備え付けられたアルゴリズムに乗っ取り、あるじとなったジョジーの常に親友であるように、そしてジョジーが幸せであるように全身全霊を捧げるんです。

対してジョジーは、クララを本当の友だちのように大事にしたり、かと思えばモノのように扱ったり、その姿はちょうどうちの娘がリカちゃん人形を扱う様子に似てるなと思いました。

そのことについても、クララは嬉しいとか悲しいとかそんな感情は持たず、それでも常にジョジーの親友であろうとします。

こんな感じで、物語はある種の不気味さ不安さを孕みながら進んでいくんですが、クララのジョジーの家での生活が進んでいって、いろんな事実が明確になっていくについれて、次第にもう、本を読む手が止まらなくなるわけなんですよ…!

何よりクララの健気な一挙手一投足がもうっ!

Siriやアレクサ 、ルンバなんかが今後さらに発展して、もっと会話ができるようになって、人と同じ見た目になったなら、ちょびっツのちぃが誕生したら…なんてことを考えざるを得ない展開になっていくのです。

クララの語る文体も独特です、見たものや聞いたものに対する平常時のものすごく丁寧な描写に対し、おそらくクララのスペック以上の情報が押し寄せた時の、細切れで支離滅裂な感じ。

それでも「くぁwせdrftgyふじこlp!」みたいなことにはならず、こちらで繋ぎ合わせればちゃんと情景がわかるという絶妙な匙加減。ステキな読書体験でした。

やがて訪れるラスト。

スマホでもパソコンでもなんでもいいんですが、ぼくらって購入当初はあんなにウキウキワクワクしてたのに、突然「もう不要になった」と感じたり、新機種のための軍資金として下取りにだしたり、いろいろあるじゃないですか。

つまり、クララのオーナーであるジョジーにとってもそんな日が…おっと、これ以上はやめておきましょう。

ぼくらは人語を話す二足歩行の機械は、アトムやドラえもんの印象からか、ずっと仲良しの人間の隣人な気がしてましたが、家電やガジェットの進化系の系譜となるなら…なんて思いました。

ぼくは、この物語は「ハッピーエンドで終わった」と思いました。

でも、それは自分のこれまでのガジェットや家電に対する接し方を肯定したいがために、そう思いたいだけかもしれません。

皆さんはどう思われるか語り合いたくなるような、そんなお話でした。